CYCLE CINEMA⑨
『クレイマー、クレイマー』
はじめて自転車に乗った瞬間、誰といたか

アメリカン・ニューシネマという映画のムーブメントがあった。『俺たちに明日はない』『卒業』『イージーライダー』『未知との遭遇』『地獄の黙示録』といった1960年後半~70年代にかけて発表された作品群だ。若手監督が多く起用された理由もあるのだろう、社会や政治に対してのメッセージやある種の批判的な視点を取り入れていて、従来のエンターテイメント映画とは異なるアプローチをしている。アメリカン・ニューシネマは若い世代に熱狂的に支持され、その後の映画に大きな影響を与えた。

『クレイマー、クレイマー』(1979年)もアメリカン・ニューシネマの作品。ストーリーはシンプルで離婚した夫婦と子どもの物語だ。オリジナルタイトルは『Kramer vs. Kramer』なので、裁判劇ということがわかるだろう。物語はヴィヴァルディの『マンドリン協奏曲 RV 425』の軽快な音楽で始まる。その軽快な音楽と対比するかのようにメリル・ストリープ演じるジョアンナの表情は暗い。今まさに、彼女は息子のビリーを置いて家を出ようと決心していたのだ(ほぼセリフもなく、表情だけで思いを伝えるメリル節が炸裂している)。そんなことも知らず、テッド(ダスティン・ホフマン)が仕事から帰ってくる。彼の頭の中は仕事のことでいっぱいだ。ジョアンナは明確な理由も告げぬままテッドと別れると言い、家を出て行く。すぐに戻るだろう。テッドは軽く思っていた。しかし、彼女は戻ってこない。ジョアンナに任せきりだった家事をなんとかこなしながら、子育てと仕事に奮闘していく。テッドは彼なりに子育てを懸命にする。しかし、ビリーは母が去った寂しさをテッドにぶつける。心身共に疲れたテッドは仕事のミスが重なっていく。仕事だけでなく、息子との関係もひどくなる一方だった。

ある日、2人の姿はセントラルパークにあった。青い子ども用自転車にまたがるビリー。「しっかりしろ、もっと集中しなきゃだめだ!」と、父は子に自転車の乗り方をアドバイスし、鼓舞する。自転車を操れるようになったビリーを見て大喜びするテッド。息子が生まれて初めて自転車に乗った後ろ姿をニコンのカメラで押さえるが、この幸せな瞬間を誰とも共有できない寂しさを携えた彼の表情がなんとも切ない。幸せな瞬間を共有することが家族の形なのだろう。この切なくも幸せなシーンの後、テッドとジョアンナはビリーの親権を争う戦いが始まる。

『クレイマー、クレイマー』は、「男は仕事、女は家庭」といった古い家庭像に疑問を投げかけていた。今観ても、共感することが多い。……ということは、アメリカン・ニューシネマで若い世代が旧体制に疑問を投げかけた時代から、日本社会はあまり変わってないのかもしれない。

🎬CYCLE CINEMA STORAGE🎬
#01 “自転車泥棒”
#02 “プロジェクトA”
#03 “明日に向かって撃て!”
#04 “少年と自転車”
#05 “居酒屋兆治”
#06 “ニュー・シネマ・パラダイス”
#07 “キッズ リターン”
#08 “PERFECT DAYS”
#09 “クレイマー、クレイマー”
#10 “E.T.”
#11 “ガチ星”
#12 “イエスタデイ”
#13 “少女は自転車にのって”
#14 “関心領域”
#15 “アンゼルム”
#16 “男はつらいよ”


Profile

Text_井上英樹/Hideki Inoue
兵庫県尼崎市出身。ライター、編集者。趣味は温浴とスキーと釣り。縁はないけど勝手に滋賀県研究を行っている。1カ所に留まる釣りではなく、積極的に足を使って移動する釣りのスタイル「ランガン」(RUN&GUN)が好み。このスタイルに自転車を用いようと、自転車を運搬する為に車を購入した(本末転倒)。

Illusutration_Michiharu Saotome

CULTURE
CYCLE CINEMA⑱
『レッド・ロケット』
止まらない、ギリギリの速度で

人は、帰りたくない場所へも帰らなければならないときがある。マイキーにとって故郷は、その種類の場所だった。彼が戻ってきたのは、かつて妻と暮らしていたテキサスの家。しかし、関係はとっくに切れている。「しばらく住ませてくれ」と頼むマイキーに対し、妻レクシーは取り付くしまがない。生活に困っているレクシーと義母リルに対して、週200ドルの家賃を払う条件で、マイキーはリビングのソファーを寝床として使うことになる。かつてハリウッドでポルノ俳優として名を知られていた時期もあったが、いまではその栄光は影のようだ。ハリウッドでも居場所を失い、ほとんど無一文で戻ってきたのだった。 週200ドルを支払わなければ、この場所からも追い出される。彼に行く場所はもうない。敷地に放置されていた古びた自転車にまたがり、仕事を求めて面接に向かう。車移動が当たり前のこの町で、自転車は大人の移動手段とは言いがたい。長い年月を経て、彼は元の地点に巻き戻されてしまったかのようだ。荒れた道路の端を汗をかきながらペダルを漕ぐ。自転車は彼の生のかたちそのものだ。前に進んでいるはずなのに何も変わらない。遠くへ行けるわけでもない。今あるものを「とりあえず繋ぎ止める」ためだけの最低限の速度。速度を少しでも緩めると倒れてしまう。自転車は、彼の人生の姿勢をそのまま象徴している。 それでも、彼の中にはかすかな優しさがある。車椅子の人の前では速度を落とす。それは特筆すべきほどの優しさではなく、ただ身体が覚えてしまった癖のようなものだ。決してすさんだ人間ではないのだろう。けれど、その小さな思いやりが彼の人生を大きく修正するほどの力を持つわけでは […]

#Colunm
CULTURE
CYCLE CINEMA⑤
『居酒屋兆治』
函館の坂道を自転車で行く健さんの格好良さよ

北海道を鉄道で旅していたとき、奇妙なアナウンスがあった。ドラマ撮影のため、次の駅の名前が変わっているから気をつけろという。車内がざわめいた。北海道・富良野を舞台にした人気ドラマだったからだ。列車は駅に着いたが、撮影隊らしきものを通り越してしまった。すると、ホームの隅に背の高い男性がいるのが見えた。帽子を深くかぶってはいたが高倉健だとすぐにわかった。恐らく、旧知の友(田中邦衛)の撮影現場に陣中見舞いに訪れたのだろう。僕らの視線に気がついた健さんは、はにかみながら片手を上げて挨拶してくれた。圧倒的な格好良さだった。以来、「世代」ではないけれど、高倉健の主演する作品を観るようになった。

#Cinema #Column
CULTURE
CYCLE CINEMA⑮
『アンゼルム』
巨大「工場」を自転車で行くアーティスト

画家、アーティストのスタジオと聞き、想像するイメージがあると思う。混沌としたデスクには絵筆や絵の具が乱雑に並ぶ。日差しが降り注ぐ大きな窓。その先には美しい庭があるかもしれない。ドイツの現代美術の巨匠アンゼルム・キーファーを描いた映画『アンゼルム』(2023年)はドキュメンタリー作品のスタイルを取る。しかし、監督はヴィム・ベンダース。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』『PERFECT DAYS』などで知られる名匠だ。彼の手にかかると、単なる記録映像ではなく、事実とフィクションが絶妙に混じり合う詩的な映像体験へと昇華される。 キーファーはドイツを代表する芸術家だ。彼の扱うテーマもドイツの歴史、ナチス、戦争、ワーグナー、ギリシャ神話、聖書などをテーマに、砂や薬、鉛などを用いた作品が特徴的だ。フライブルク大学で法律を学ぶが、美術に転じ、1969年にカールスルー工芸術アカデミーに入学。1970年にはデュッセルドルフ芸術アカデミーで絵画を学び、ヨーゼフ・ボイスらに師事した。現在では、現代美術における最重要作家の一人として数えられている。 映画冒頭、キーファーのスタジオが登場する。フランス南部の町・バルジャックにあるスタジオで元は繊維工場だったそうだ。このスケールが大きい。制作で使う素材や道具は専用棚に収納されており、作品を運ぶフォークリフトが走り回る。もはや「工場」と呼ぶにふさわしい広大な空間だ。彼の作品は巨大であり、その制作環境もまた圧倒的なスケールを持つ。そんな広大なスタジオの中を彼は自転車で巡る。作品から作品へ。まるで自らの創造の森を探検するかのように、軽やかに移動する姿が印象 […]

#Wim Wenders