CYCLE CINEMA②
『プロジェクトA』 至極の自転車チェイスに浸る

90年代初頭の中国は、今の中国の風景とまるで違った。朝夕には「中国名物」と言われた自転車ラッシュアワーを見ることができた。当時は多くの人々が通勤に自転車を利用していた。数千の人々が同じ道を走る様子は圧巻だった。しかも、ほぼ同じ車種で色も同じだったため、ある種の調和があった。『鳳凰』と『永久』という上海のブランドが人気だったように思う。生活を支える交通手段だったので、タフで重厚感のある自転車だった。

当時の香港映画にもよく自転車が登場した。きっと、人々にとって馴染みの深い乗り物だったのだろう。ジャッキー・チェンの最高傑作の一つ『プロジェクトA』(1983年)にも印象的な自転車シーンが登場する。

『プロジェクトA』の舞台はイギリス統治下の香港。海賊退治を命じられた警察(ジャッキーは水上警察に所属)が海賊の財宝を狙う盗賊(サモ・ハン・キンポー)と共に海賊討伐作戦の乗り出すという、無敵の「ザ・エンタメ」映画だ。

敵対する陸上警察に拘束されてしまうジャッキーだったが、自転車を盗んで逃走する。ここからカーチェイスならぬ自転車チェイスがはじまる。追う警察も自転車だ。旧市街の狭い路地を自転車で駆け抜けるジャッキー。路地にある竹やハシゴを武器にしたり、自転車自体で攻撃したりして、警察を翻弄して逃げ切る。

時間にしてわずか3分ほどのシーンなのだが、何度も繰り返してみたくなる中毒性のある映像になっている。今見直しても、チャップリンやキートンを彷彿とさせるコメディ要素に加え、綿密に計算され尽くしたタイミングやパルクールの妙技に惚れ惚れする。

当時、相当数のアジア圏の子どもたちが怪我をしたことだろう。カーアクションを真似することはできないが(犯罪だし)、自転車アクションなら真似できる。この幼い時期の記憶は自転車を愛する気持ちに影響を与えているのではないか。自転車で狭い路地を走ると、当時の楽しい記憶がふと蘇る。

🎬CYCLE CINEMA STORAGE🎬
#01 “自転車泥棒”
#02 “プロジェクトA”
#03 “明日に向かって撃て!”
#04 “少年と自転車”
#05 “居酒屋兆治”
#06 “ニュー・シネマ・パラダイス”
#07 “キッズ リターン”
#08 “PERFECT DAYS”
#09 “クレイマー、クレイマー”
#10 “E.T.”
#11 “ガチ星”
#12 “イエスタデイ”
#13 “少女は自転車にのって”
#14 “関心領域”
#15 “アンゼルム”
#16 “男はつらいよ”


Text_井上英樹/Hideki Inoue

兵庫県尼崎市出身。ライター、編集者。趣味は温浴とスキーと釣り。縁はないけど勝手に滋賀県研究を行っている。1カ所に留まる釣りではなく、積極的に足を使って移動する釣りのスタイル「ランガン」(RUN&GUN)が好み。このスタイルに自転車を用いようと、自転車を運搬する為に車を購入する予定(本末転倒)。

Illusutration_Michiharu Saotome

CULTURE
CYCLE CINEMA⑭
『関心領域』
地獄と天国を自転車が繋ぐ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(以下、アウシュヴィッツ)を題材にした『関心領域』(2024年)は、美しく明るい場面が続く。ご存じのように、ナチス体制のもとで管理・運営されていたアウシュヴィッツは「人類最大の過ちのひとつ」「人類史上最悪の犯罪現場」として悪名高い施設だ。ドイツが占領下に置いた現在のポーランド南部、オシフィエンチム市郊外に建設された。司令官ルドルフ・ヘスの指揮のもと、1940年から1945年にかけて多くのユダヤ人が殺害された。あまりにも多くの人が犠牲となったため、現在でも正確な総数は不明とされ、100万から250万人という説がある。 映画の舞台はルドルフ・ヘスの邸宅。そこには家族が暮らしている。戦時下であっても家の中には家庭の日常があり、子育てや夫婦の会話が交わされる。その日常は淡々と続く。しかし、観客は次第に不思議な違和感を覚える。この家は何かがおかしい。空気のように扱われる使用人たちだろうか。誰かから奪った衣服を嬉しそうに着る夫人だろうか。吠えまくる犬だろうか。おかしな行動をする子どもたちだろうか。違う。「音」だ。音によって、家の「外」で何かが起きていることに気づく。 そう、ヘスの家の隣にはアウシュヴィッツがあるのだ。何かを燃やすボイラーの音、乾いた銃声、命令口調のドイツ語、叫び声、人々が運び込まれる機関車の音。その「音」に囲まれて、ヘスの家族は暮らしている。まともな感覚を持っていれば、音の元を想像する。そんな場所で暮らすことに耐えられないだろう(事実、逃げ出す人もいた)。塀を一枚隔てた場所は地獄なのだから。しかし、すぐ側では普通の暮らしがあり、庭の花を […]

#Colunm #Cinema
CULTURE
CYCLE CINEMA⑰
『国宝』
美しさと恐ろしさの間で

ある歌舞伎役者をインタビューする機会があった。指定された茶室で正座をして窓から外を見ていると、着物姿の人が現れ空を仰ぎ見た。さながら映画のような風景だった。まもなくして茶室に役者が現れた。ふと、私を見て「正座、慣れてないでしょう。どうぞ、足をお崩しになって」と優しく言った。 人間国宝でもあるその役者は、歌舞伎に詳しくない私の質問のひとつひとつに時間をかけ、丁寧に答えてくれた。人間国宝とは、国の「重要無形文化財」に指定された伝統芸能や伝統工芸の分野で、「わざ(技能)」を最高度に体得・実践している個人を指す通称だ。歌舞伎の世界に血筋を持たず、外から歌舞伎の世界に入ったこの役者の苦労はいかほどのものだっただろう。取材は数時間だったけれど、その僅かな時間でも佇まいの美しさや言葉遣い、歌舞伎に対する情熱が伝わってきた。それと同時に、ここに至るまでの努力や時間を想像するだけで恐ろしくなった。この人の美しさは同時に恐ろしさも内包していると感じた。 『国宝』は吉田修一による同名小説の映画化。血筋が支配する歌舞伎の世界に飛び込んだ一人の青年の物語だ。舞台は1960年代の長崎から始まる。任侠の一門に生まれた喜久雄は美しい顔を持つ少年だった。しかし、抗争によって父を亡くし、15歳にして天涯孤独となってしまう。そんな彼の天性の才能を見抜いたのが、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎。半二郎は喜久雄を引き取り、喜久雄は歌舞伎の世界へ飛び込むことになる。 そこで出会ったのが、半二郎の息子・俊介。生まれながらに将来を約束された俊介と、任侠の血を引く喜久雄。正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人だが […]

#Cinema #Colunm
CULTURE
CYCLE CINEMA⑬
『少女は自転車にのって』
女性が自転車に乗れない世界の物語

映画のおもしろいところは、多様な世界を見せてくれることだろう。マフィアの血の歴史を。遠い星で起こった戦争を。殺し屋と少女の出会いを。幕末の侍の生涯を。絶体絶命の兵士を。湖畔で襲いかかる殺戮者との戦いを。国境や時代、時空を越えて、私たちに驚きと感動を与えてくれる。 『少女は自転車にのって』(2012年)はアカデミー賞外国語映画賞やヴェネツィア国際映画祭国際映画祭にノミネートされたサウジアラビア映画(ドイツ共同制作)。監督と脚本を担当したハイファ・アル=マンスールはサウジアラビア初の女性映画監督だ。 物語はサウジアラビアの首都リヤドで始まる。主人公は10歳の少女ワジダだ。頭の回転が速く、小銭を貯める能力に長けている。その彼女の夢は自転車に乗ること。お金を貯めて自転車を買い、男友だちと自転車競走がしたいのだ。これを聞いた人は「はいはい、途上国の貧困映画ね」と思われるかもしれない。違うのだ。彼女の家はおそらく中流家庭より上。素敵なリビングには大型テレビやゲーム機がある。母の仕事の送り迎えにはドライバーがいる(乗り合いだけど)。基本的に生活には困りごとはない。両親は真面目に働き、彼女に愛情を注いでくれる。お金に困っていないのに、なぜ自転車を買えないのか。それは、女の子が自転車に乗ってはいけないから。 私たちの常識から考えると驚きの女性差別が劇中に登場する。学校でも大きな声で話してはいけない(男性に聞かれてはいけない)。顔や体のラインがわからないようヒジャブなどで覆わなくてはならない。婚姻前の年頃の男女が外で会ってはならない。ラジオでロックを聴いてはいけない(これは女性だからというわけでは […]

#Cinema #Colunm