下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド 北斎の名残をさがして(その1)

1856年。フランスの若き版画家ブラックモンは知人のコレクションの陶磁器を見せてもらう。陶磁器は当時海外との国交を禁じていた日本から輸入されたもので、おそらく西欧では希少なものであっただろう。しかし彼の目を惹きつけて離さなかったのは器ではなく、その包装紙だった。
それは、葛飾北斎の『北斎漫画』の1ページ。
絵に感銘を受けたブラックモンは、その後苦労して入手した『北斎漫画』をパリの画家仲間たちに広め、やがて北斎はフランスからヨーロッパで広く知られるようになる。

…という話は残念ながら創作といわれていますが、北斎が当時のヨーロッパ、とりわけクロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホといった若き印象派の画家たちに強い衝撃を与えたことは広く知られています。

葛飾北斎 『富嶽三十六景』より「神奈川沖浪裏」

海外では「The Great Wave」と呼ばれる富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」など、だれもが一度は目にしたことのある北斎の絵。日本が初めて芸術デザインを取り入れた現行のパスポートには富嶽三十六景から16~24作品が掲載され、神奈川沖浪裏は2024年秋からの1000円札の新札の図案となるなど、今や日本を代表する画家である葛飾北斎。
そして何より本コラム「下町自転車散歩」的には、彼は生涯町絵師として地元を愛したお江戸下町っ子の大先輩でもあります。

本日は下町っ子の不肖の後輩が、北斎が生まれ暮らした墨田区を中心に、その人生の足跡を自転車で訪ねていきたいと思います。

目次

 1. やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~)
 2. ティーンエイジャー(10歳~)

1、 やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~)

誕生
江戸と下総の国をつないだ両国橋ができてからおよそ100年後。田舎だったのも今は昔、新しく江戸となった本所(現在の墨田区)は日本橋から移転した武家や町人によってにぎわっていました。1760年、本所割下水の近くで後の北斎となる川村時太郎(長じて鉄蔵)が誕生します。
※なお、当時の慣習に従って年齢は生まれた年を1歳とする数え年で記載しています。

現在その本所割下水は埋め立てられ「北斎通り」となっています。下水とはいっても当時のトイレは汲み取り式で生活排水もほとんど流れ込まなかったため、下水から池を引けるくらいの水質であったようです。有名な神奈川沖浪裏など、水の表現力に秀でていた北斎。水に恵まれた地域で暮らしたことも影響しているのかもしれません。

本所割下水跡、北斎通り

北斎誕生の記念碑が建てられている緑町公園。隣接するすみだ北斎美術館は2016年に設立。当館では、英語、中国語、フランス語など複数言語で北斎の作品が解説されています。訪れたときは、海外の北斎人気を証明するように来館者の3割くらいが海外からの旅行者といった印象でした。

緑町公園に隣接するすみだ北斎美術館。

そして、北斎は6歳の時に絵を描き始めます。

2、ティーンエイジャー(10歳~)

貸本屋にて
11歳。当時本は買うものではなく借りるもの。北斎は貸本屋で働きはじめます。

葛飾北斎 『画本東都遊』より「絵草紙店」


「外題では博学多才貸本屋」
意味:(中は読んでいないのに)本のタイトルだけなら詳しい貸本屋

なんて川柳を後年北斎は読んでいるものの、たくさんの挿絵と文章にふれたことは後の画業の糧となったようです。一説によれば、挿絵に見とれてばかりいて働きが悪く、クビになってしまったとか…

彫師となる
14歳。貸本屋をクビになった(?)後は彫師として働きます。
当時、浮世絵というジャンルの中には錦絵と呼ばれる大量印刷が可能な多色刷りの木版画と、肉筆絵と呼ばれる1点ものの直筆画がありました。木版画は、モノクロ(墨)の下絵を描く絵師、下絵を木版に彫り版を重ねて色を付ける彫師、それを印刷する摺師という役割分担で製作されました。この時期の経験が、のちに彫師にディレクションをする際に役立ちました。

そして19歳。北斎は当時人気の絵師、勝川春章の門を叩き長い浮世絵師としてのキャリアをスタートさせます…

※Part2は近日公開予定です。肝心の自転車散歩は次回以降に登場します。お楽しみに!

🚲本日のライド(Part1 ~ Part3まで含みます)

参考サイト
すみだ北斎美術館 : https://hokusai-museum.jp/ 

🚴‍♂️北斎自転車散歩🚴‍♂️
#01 誕生~10代
#02 20代~40代
#03 50代~

Profile

下町こんぶ
週末ライター。東京神田生まれ三代目の江戸っ子。下町再発見に興味あり。本格的な自転車経験はないが、通勤時の相棒として、電動自転車を日々重宝している。方向音痴が悩みの種。私淑するエッセイストは東海林さだお。ライターネームは駄菓子屋の定番「都こんぶ」にあやかる。

TRIP&TRAVEL CULTURE
下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド
北斎の名残をさがして(その3)

北斎の全盛期である後半生を自転車でたどる、北斎自転車散歩最終回。漫画、アートパフォーマンス、富岳三十六景、富士山への憧憬。本所地域から浅草地域を巡り、北斎の名残を探します。 目次  1. 「漫画」の生まれた日(50代) 2. その男、変わり者につき(60代) 3. The Great Wave(70代) 4. 絵と旅する男(80代) 5. 忘れられた巨人(90代) 『ドラゴンボール』、『Drスランプ』などを生み出した漫画家、鳥山明氏が2024年に亡くなり、世界中でその別れが惜しまれました。「漫画(Manga)」は世界でも共通語となった日本発のカルチャーですが、その言葉を生み出した人物をご存じでしょうか。 1、 「漫画」の生まれた日(50代) 55歳。依頼されて書き溜めたスケッチ集、『北斎漫画(海外では北斎スケッチ)』シリーズを刊行すると、これが予想外の大ヒットします。版元からどんなタイトルが良いかと問われた北斎は、「漫ろに(=自由に)書いた画なので、漫画がよい。」と名付けたそうです。「漫画」という言葉はこの時初めて誕生したそうなので、北斎はいわば漫画の名付け親ですね。 北斎の伝記を著した19世紀フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールは北斎漫画を、「魔法じみたスナップショット」と評しています。 パフォーマー北斎なお、北斎は絵を公開制作するという現代アート的なパフォーマンスも行っていました。名古屋逗留の際には、本願寺名古屋別院にて、120畳(約186㎡)もの大きさの絵を描いたそうです。地面から見ている人々には何が描かれているかわからず、高い場所から見下ろしてようやく達磨の絵だと分か […]

#Tokyo #Hokusai
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北斎の名残をさがして(その2)

葛飾北斎の足跡を自転車でたどる短期連載第2回。今回は、勝川一門に入門し、浮世絵の世界に飛び込んだ20代の北斎から始まります。 目次  1. 相撲の町にて(20歳~) 2. 北斗の人(30歳~) 3. 北斎、葛飾北斎となる(40歳~) 1、 相撲の町にて(20歳~) 北斎は勝川一門に入門わずか1年で勝川春朗を名乗ることを許され、錦絵を製作します。(なお、彼は生涯で画号を30以上変えていますが、本コラムでは北斎で統一します。)当時の浮世絵のモチーフは、美人画、役者絵、そして相撲絵など。 北斎が9歳の1768年、勧進相撲(幕府に認可された公式な相撲)の会場が両国橋からほど近い回向院に移され、以降回向院は1946年まで相撲常設館として賑わいました。当然、北斎も力士の筋肉や動きを観察するため幾度となく通ったことでしょう。 ※訪日外国人の方に向けたドコモバイクシェアの借り方については次のページもご参照ください。訪日外国人の方がドコモバイクシェアを利用する方法 なお、この頃北斎は挿絵の他に匿名で文章も書くことがありました。貸本屋で働いた経験が役立ったのかもしれませんね。 2、北斗の人(30歳~) 破門と天啓 34歳。師匠の勝川春章の没後、北斎の才能を妬んだ兄弟子たちからの嫌がらせなどもあり、北斎は勝川派を飛び出します。その後さまざまな流派の門をたたいて画法を修行しますが、春朗の名前を使うことも禁じられ、唐辛子やカレンダーを売り歩いてしのぐほど極貧の時代だったといいます。 このころの北斎について、柳嶋妙見山法性寺にはこんな話が伝えられています。曰く、北斎が北辰妙見菩薩(北斗七星を象徴した仏)に […]

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