下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド
北斎の名残をさがして(その3)

北斎の全盛期である後半生を自転車でたどる、北斎自転車散歩最終回。
漫画、アートパフォーマンス、富岳三十六景、富士山への憧憬。
本所地域から浅草地域を巡り、北斎の名残を探します。

目次

 1. 「漫画」の生まれた日(50代)
 
2. その男、変わり者につき(60代)
 3. The Great Wave(70代)
 4. 絵と旅する男(80代)
 5. 忘れられた巨人(90代)

『ドラゴンボール』、『Drスランプ』などを生み出した漫画家、鳥山明氏が2024年に亡くなり、世界中でその別れが惜しまれました。「漫画(Manga)」は世界でも共通語となった日本発のカルチャーですが、その言葉を生み出した人物をご存じでしょうか。

1、 「漫画」の生まれた日(50代)

55歳。依頼されて書き溜めたスケッチ集、『北斎漫画(海外では北斎スケッチ)』シリーズを刊行すると、これが予想外の大ヒットします。
版元からどんなタイトルが良いかと問われた北斎は、「漫ろに(=自由に)書いた画なので、漫画がよい。」と名付けたそうです。「漫画」という言葉はこの時初めて誕生したそうなので、北斎はいわば漫画の名付け親ですね。

北斎の伝記を著した19世紀フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールは北斎漫画を、「魔法じみたスナップショット」と評しています。

北斎漫画。メトロポリタン美術館ホームページより。

パフォーマー北斎
なお、北斎は絵を公開制作するという現代アート的なパフォーマンスも行っていました。名古屋逗留の際には、本願寺名古屋別院にて、120畳(約186㎡)もの大きさの絵を描いたそうです。地面から見ている人々には何が描かれているかわからず、高い場所から見下ろしてようやく達磨の絵だと分かったとのこと。関西においても北斎の評判は広まることとなりました。

2017年に本願寺名古屋別院の記念行事として行われた、北斎の「120畳大だるま絵」の再現。 本願寺名古屋別院ホームページより

2、その男、変わり者につき(60代)

60代。北斎の人気は確固たるものになり、100人を超える弟子を抱えていたとも言われています。
この章では、北斎はどんな生活をしていたか見てみましょう。

貧乏
江戸っ子の 生まれそこない 金をため

という川柳にあるように、江戸っ子は金を持っていないのが普通、いや逆に金をためる奴はカッコ悪いという価値観でした。
当時の江戸は木造建築で火事が頻繁に起こる町であり、金を預ける銀行制度もないため、蓄財という概念が自然と薄くなったと言われています。金銭に無頓着な北斎も江戸っ子らしく生涯貧乏でしたが、本人は特に苦しく感じているわけではないようです。
ちなみに、私もこの点だけは江戸っ子を名乗っても恥じないと自負しております。

引っ越し魔
北斎は生涯93回(!)の引っ越しをしました。ひどい時には、1日に3回の引っ越しをしたなんて話も。基本的には現在の墨田区内の狭い範囲で引っ越しを繰り返していた模様。生涯にわたって長屋と呼ばれる今でいうところの1Kの貸家に暮らし1Kの貸家に暮らして、ゴミがたまれば新居に引っ越すというサイクルだったそうです。

すみだ北斎美術館に展示された、北斎と娘お栄の長屋暮しの再現模型
榛稲荷神社の北斎住居跡

生活習慣
日の当たらないうちに起き、食事もとらずに絵筆をとってひたすら絵を描き続け、夜になり目と腕が疲れたら初めて筆をおいて蕎麦2杯を食べて寝る。というルーティンだったといわれています。
当時の江戸っ子には珍しく、酒やたばこに興味がなく、甘いものを除いて食事にもあまり興味はなかったようです。

蕎麦好きの北斎の名を冠した、蕎肆 穂乃香(きょうし ほのか)の北斎せいろ。
http://kyousi-honoka.com/

3. The Great Wave(70代)

現代だと仕事を定年退職して第二の人生を送っている年代ですが、北斎の絵師人生はここからが全盛期。

72歳、日本一の山「富士山」をテーマにした連作『富嶽三十六景』を発売します。
この作品は先日ニューヨークのオークションに出品され355万ドル(約5億3000万)で全ページが落札されたことでも話題になりました。

The Great Waveとして知られる神奈川沖浪裏も、この中の1枚です。

当時は富士信仰が民間に根付いており、各地に富士山を模した塚が祀られていたそうです。
生涯に本物の富士山を見に行けなかった人達も代わりの塚に詣でていたとおもうと、庶民のつつましい生活がいじらしくも感じられます。
そんな憧れの富士山を様々な地から描いたこの画集は、気持ちだけでも人々を旅行にいざなってくれたのかもしれません。

浅間神社の浅草富士(富士塚)

4. 絵と旅する男(80代)

この頃、大飢饉や幕府の統制などが起こり、出版業界を取り巻く状況は厳しくなっていました。
北斎は新しい技法を取り入れ、肉筆画と呼ばれる一点物の直筆画を多く手掛けるようになります。
そんな中、信州小布施(現在の長野県)の名士と知り合った北斎は、小布施に招かれます。江戸から小布施までは直線距離でも220km以上もありながら、よほどその地と人々が気に入ったのか、北斎はその健脚で3度も小布施に逗留し、娘のお栄らと共に数々の肉筆画を残しています。

北斎は旅好きでも知られており、他にも名古屋、浦賀、千葉などさまざまな土地を訪れ、絵の題材にしています。この時代に自転車があったら、きっと絵筆を背負って乗り回していたでしょうね。

5. 忘れられた巨人(90代)

90歳、浅草遍照院の長屋で、北斎はついに病に倒れます。娘のお栄と弟子たちに残した遺言は「あと10年…いやあと5年の寿命が保てれば本当の絵師になれるのに」。
その亡骸は浅草の誓教寺に埋葬されました。

今もその墓は誓教寺に残っています。

北斎最後の住居、遍照院。
4月18日の命日には北斎忌が行われる誓教寺には、北斎の墓がある。台座には本姓の川村と記されている。

エピローグ
北斎の死後4年後、浦賀にアメリカのペリー提督の艦隊が来航。やがて江戸幕府は倒れ、西洋化した近代国家、明治政府が誕生することになります。

価値観が激動する時代、日本美術、とりわけ町絵師の画は顧みられなくなり、北斎の名前も忘れられていきました。北斎の死後44年後に、飯島虚心という作家が北斎の伝記をまとめたときは、当時の弟子も知り合いも殆ど残っていない有様でした。

その一方で日本人の知らないうちに、近代日本では価値が低いものとみなされた浮世絵は海外に広まりはじめていました。とりわけ北斎の自由な筆致は、クロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホといった画家たちが置かれていた保守的なフランスの絵画界に衝撃を与え、ジャポニズムというムーブメントを生み出す原動力となりました。

生涯30回以上も画号を変えた北斎。その最後の画号は「画狂老人卍」。
北斎は一生涯を絵に捧げた・・・というよりは、絵を描くことを純粋に楽しむ、子供のような好奇心を終生もち続けた人だったように思えます。
いくつになっても色々なことに興味津々であった北斎は、
もしかしたら、お読みいただいているあなたに似ているのかもしれませんね。

北斎の生きた軌跡は東京・墨田区界隈の至る場所に残されています。自転車でぶらりと巡ってみてはいかがでしょうか。


🚲北斎自転車散歩コース



参考サイト
すみだ北斎美術館 : https://hokusai-museum.jp/
メトロポリタン美術館 : https://www.metmuseum.org/ja
本願寺名古屋別院 : https://tokai-hongwanji.net/

🚴‍♂️北斎自転車散歩🚴‍♂️
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Profile

下町こんぶ
週末ライター。東京神田生まれ三代目の江戸っ子。下町再発見に興味あり。本格的な自転車経験はないが、通勤時の相棒として、電動自転車を日々重宝している。方向音痴が悩みの種。私淑するエッセイストは東海林さだお。ライターネームは駄菓子屋の定番「都こんぶ」にあやかる。

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北斎の名残をさがして(その2)

葛飾北斎の足跡を自転車でたどる短期連載第2回。今回は、勝川一門に入門し、浮世絵の世界に飛び込んだ20代の北斎から始まります。 目次  1. 相撲の町にて(20歳~) 2. 北斗の人(30歳~) 3. 北斎、葛飾北斎となる(40歳~) 1、 相撲の町にて(20歳~) 北斎は勝川一門に入門わずか1年で勝川春朗を名乗ることを許され、錦絵を製作します。(なお、彼は生涯で画号を30以上変えていますが、本コラムでは北斎で統一します。)当時の浮世絵のモチーフは、美人画、役者絵、そして相撲絵など。 北斎が9歳の1768年、勧進相撲(幕府に認可された公式な相撲)の会場が両国橋からほど近い回向院に移され、以降回向院は1946年まで相撲常設館として賑わいました。当然、北斎も力士の筋肉や動きを観察するため幾度となく通ったことでしょう。 ※訪日外国人の方に向けたドコモバイクシェアの借り方については次のページもご参照ください。訪日外国人の方がドコモバイクシェアを利用する方法 なお、この頃北斎は挿絵の他に匿名で文章も書くことがありました。貸本屋で働いた経験が役立ったのかもしれませんね。 2、北斗の人(30歳~) 破門と天啓 34歳。師匠の勝川春章の没後、北斎の才能を妬んだ兄弟子たちからの嫌がらせなどもあり、北斎は勝川派を飛び出します。その後さまざまな流派の門をたたいて画法を修行しますが、春朗の名前を使うことも禁じられ、唐辛子やカレンダーを売り歩いてしのぐほど極貧の時代だったといいます。 このころの北斎について、柳嶋妙見山法性寺にはこんな話が伝えられています。曰く、北斎が北辰妙見菩薩(北斗七星を象徴した仏)に […]

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江戸・下町のレジェンド 北斎の名残をさがして(その1)

1856年。フランスの若き版画家ブラックモンは知人のコレクションの陶磁器を見せてもらう。陶磁器は当時海外との国交を禁じていた日本から輸入されたもので、おそらく西欧では希少なものであっただろう。しかし彼の目を惹きつけて離さなかったのは器ではなく、その包装紙だった。それは、葛飾北斎の『北斎漫画』の1ページ。絵に感銘を受けたブラックモンは、その後苦労して入手した『北斎漫画』をパリの画家仲間たちに広め、やがて北斎はフランスからヨーロッパで広く知られるようになる。 …という話は残念ながら創作といわれていますが、北斎が当時のヨーロッパ、とりわけクロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホといった若き印象派の画家たちに強い衝撃を与えたことは広く知られています。 海外では「The Great Wave」と呼ばれる富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」など、だれもが一度は目にしたことのある北斎の絵。日本が初めて芸術デザインを取り入れた現行のパスポートには富嶽三十六景から16~24作品が掲載され、神奈川沖浪裏は2024年秋からの1000円札の新札の図案となるなど、今や日本を代表する画家である葛飾北斎。そして何より本コラム「下町自転車散歩」的には、彼は生涯町絵師として地元を愛したお江戸下町っ子の大先輩でもあります。 本日は下町っ子の不肖の後輩が、北斎が生まれ暮らした墨田区を中心に、その人生の足跡を自転車で訪ねていきたいと思います。 目次  1. やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~) 2. ティーンエイジャー(10歳~) 1、 やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~) 誕生江戸と下総の国をつな […]

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