江戸・下町のレジェンド 北斎の名残をさがして(その1)
下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド
北斎の名残をさがして(その2)
葛飾北斎の足跡を自転車でたどる短期連載第2回。
今回は、勝川一門に入門し、浮世絵の世界に飛び込んだ20代の北斎から始まります。
目次
1. 相撲の町にて(20歳~)
2. 北斗の人(30歳~)
3. 北斎、葛飾北斎となる(40歳~)
1、 相撲の町にて(20歳~)
北斎は勝川一門に入門わずか1年で勝川春朗を名乗ることを許され、錦絵を製作します。(なお、彼は生涯で画号を30以上変えていますが、本コラムでは北斎で統一します。)
当時の浮世絵のモチーフは、美人画、役者絵、そして相撲絵など。
北斎が9歳の1768年、勧進相撲(幕府に認可された公式な相撲)の会場が両国橋からほど近い回向院に移され、以降回向院は1946年まで相撲常設館として賑わいました。当然、北斎も力士の筋肉や動きを観察するため幾度となく通ったことでしょう。
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なお、この頃北斎は挿絵の他に匿名で文章も書くことがありました。貸本屋で働いた経験が役立ったのかもしれませんね。
2、北斗の人(30歳~)
破門と天啓
34歳。師匠の勝川春章の没後、北斎の才能を妬んだ兄弟子たちからの嫌がらせなどもあり、北斎は勝川派を飛び出します。その後さまざまな流派の門をたたいて画法を修行しますが、春朗の名前を使うことも禁じられ、唐辛子やカレンダーを売り歩いてしのぐほど極貧の時代だったといいます。
このころの北斎について、柳嶋妙見山法性寺にはこんな話が伝えられています。
曰く、北斎が北辰妙見菩薩(北斗七星を象徴した仏)に立派な絵師となれるよう願をかけたところ、その帰りに雷に打たれたことでその才能が開花したと。
また、北斎の伝記にはこんな風にも語られています。
北斎は妙見様へ参拝した帰りに落雷に遭い田んぼに転がり落ちてしまったものの、何食わぬ顔で「これもご利益、雷名が上がる前兆だろう。」と言ったと。
きちがいのとらまえたがる稲光り
意味:とても変わった人が(無理なのに)雷をとらえようとしている
こんな川柳を残した北斎なので、もしかしたら雷の姿を絵に描きとめようと夢中になった挙句、落雷に遭ったのかもしれないと思いました。
いずれにせよ39歳の時、彼は信仰する北辰妙見から2文字をとり、画号を「北斎辰政(ほくさいときまさ)」と名乗ります。
3. 北斎、葛飾北斎となる(40歳~)
隅田川にほど近い、三囲神社にやってきました。
1799年、北斎40歳に行われた三囲神社の開帳では、北斎が描いた提灯と絵額が評判を呼んだそうです。
三囲神社の近くの牛嶋神社も北斎ゆかりの地です。
葛飾北斎を名乗る
現代日本では働き盛りとよばれる40代。北斎は錦絵、肉筆画、読本(長編の小説)の挿絵などを精力的にこなし、世間での評価も高まります。
そして47歳、彼は「葛飾北斎」を名乗ります。
ちなみに、葛飾とは、現在の東京東部から埼玉、茨城、千葉まで含む広範な地域の昔の呼称。
「葛飾の百姓」というペンネームで川柳の投稿も行っていたくらい、この言葉を北斎は気に入っていたようです。生まれ育った地域の名前を大切にするのはいかにも下町っ子らしい。今でもこの地域の人は自らを「本所っ子」なんて読んだりします。(ちなみに私は神田っ子)
なお、当時の平均寿命は45歳と言われていますが、北斎の人生はここからが本番。
紙幅が尽きましたので、「北斎漫画」、「富嶽三十六景」などを生み出した後半生については、近日公開するPart3でご紹介します。
🚲北斎自転車散歩コース
参考サイト
すみだ北斎美術館 : https://hokusai-museum.jp/
島根県立美術館 : https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/index.html
🚴♂️北斎自転車散歩🚴♂️
#01 誕生~10代
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Profile
下町こんぶ
週末ライター。東京神田生まれ三代目の江戸っ子。下町再発見に興味あり。本格的な自転車経験はないが、通勤時の相棒として、電動自転車を日々重宝している。方向音痴が悩みの種。私淑するエッセイストは東海林さだお。ライターネームは駄菓子屋の定番「都こんぶ」にあやかる。
投稿日:2024.05.29