CYCLE FASHION①
―ファッションブランドがデザインするサイクルアイテムー

トレンドはどんな業界やカテゴリにも存在している。中でもファッション業界は顕著で、トレンドなくして商品を語ることはできない。ムードや地域といった大きなパートから、カラーやテキスタイルなど細かい部分まで流行が及ぶ範囲は広い。

昨今の大きな潮流としてのトレンドは環境問題への対応とLGBTQ+、ウェルネス(Wellness)。ウェルネスは身体だけでなく精神やより良く生きる意思を定義する言葉として広く使われている。わかりやすい行為としては、マインドフルネス(Maindfulness)やスポーツが挙げられる。このような背景(流行)もあり、ファッション業界はスポーツシーンへの視線が熱い。ヨガやランニングに続き、近年の日本市場では特にゴルフ。そして次に来るだろう波が自転車。

agnès b.公式サイトより

agnès b.(アニエスベー)というフランスのブランドは今年の春夏にサイクリングジャージを販売した。コラボレーション相手は同国のアウトドアブランド「カフェ・ドゥ・シクリステ(Cafe du Cycliste)」。スポーツウエアは競技ごとにデザインのみならず生地や縫製、ディテールが異なり高い専門性を求めらる。ファッションブランドが本気でアスリート向けのウエアをデザインするならば、その競技専門のブランドと取り組むのは当然だろう。夏にShrimp(シュリンプ)というポップなテイストのウィメンズブランドがRapha(ラファ)と組んでサイクルウエアコレクションを出したこともその流れの中にある。

Shrimp公式サイトより

最近では、Gerry(ジェリー)というアウトドアアパレルが自転車用ヘルメットを発売した。アメリカのブランドではあるが、ヘルメットの製造元は日本の自転車部品製造企業で、本国より先駆けて今月から日本で売り出す。今年より、ヘルメット着用が努力義務となったことを受け、街中で走るのに本気すぎないウエアやヘルメットが求められるのは必然だろう。マットな質感とスポーティーすぎないディテールのベンチレーションが、アパレルブランド発らしい仕上がりとなっている。

ファッションブランドがサイクルウエアや自転車アイテムにどのようなアプローチをするか、今後も期待したい。

Text_ Mayumi Kamura

Profile

Mayumi Kamura
Global Ride編集者。得意分野はデザイン、アート、ファッションなどの視覚表現系。コロナ禍をきっかけに心身の健康に意識が向き、テニスをスタートしコンテンポラリーダンスのレッスンを再開した。自転車関係のグッズはデザイン性が高いので今回を機にハマる予感がしている。

TRIP&TRAVEL CULTURE
下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド 北斎の名残をさがして(その1)

1856年。フランスの若き版画家ブラックモンは知人のコレクションの陶磁器を見せてもらう。陶磁器は当時海外との国交を禁じていた日本から輸入されたもので、おそらく西欧では希少なものであっただろう。しかし彼の目を惹きつけて離さなかったのは器ではなく、その包装紙だった。それは、葛飾北斎の『北斎漫画』の1ページ。絵に感銘を受けたブラックモンは、その後苦労して入手した『北斎漫画』をパリの画家仲間たちに広め、やがて北斎はフランスからヨーロッパで広く知られるようになる。 …という話は残念ながら創作といわれていますが、北斎が当時のヨーロッパ、とりわけクロード・モネやフィンセント・ファン・ゴッホといった若き印象派の画家たちに強い衝撃を与えたことは広く知られています。 海外では「The Great Wave」と呼ばれる富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」など、だれもが一度は目にしたことのある北斎の絵。日本が初めて芸術デザインを取り入れた現行のパスポートには富嶽三十六景から16~24作品が掲載され、神奈川沖浪裏は2024年秋からの1000円札の新札の図案となるなど、今や日本を代表する画家である葛飾北斎。そして何より本コラム「下町自転車散歩」的には、彼は生涯町絵師として地元を愛したお江戸下町っ子の大先輩でもあります。 本日は下町っ子の不肖の後輩が、北斎が生まれ暮らした墨田区を中心に、その人生の足跡を自転車で訪ねていきたいと思います。 目次  1. やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~) 2. ティーンエイジャー(10歳~) 1、 やがて葛飾北斎となる者、川の町に誕生(1歳~) 誕生江戸と下総の国をつな […]

#Edokko #Sumida
TRIP&TRAVEL CULTURE
下町自転車散歩 #02
江戸・下町のレジェンド
北斎の名残をさがして(その2)

葛飾北斎の足跡を自転車でたどる短期連載第2回。今回は、勝川一門に入門し、浮世絵の世界に飛び込んだ20代の北斎から始まります。 目次  1. 相撲の町にて(20歳~) 2. 北斗の人(30歳~) 3. 北斎、葛飾北斎となる(40歳~) 1、 相撲の町にて(20歳~) 北斎は勝川一門に入門わずか1年で勝川春朗を名乗ることを許され、錦絵を製作します。(なお、彼は生涯で画号を30以上変えていますが、本コラムでは北斎で統一します。)当時の浮世絵のモチーフは、美人画、役者絵、そして相撲絵など。 北斎が9歳の1768年、勧進相撲(幕府に認可された公式な相撲)の会場が両国橋からほど近い回向院に移され、以降回向院は1946年まで相撲常設館として賑わいました。当然、北斎も力士の筋肉や動きを観察するため幾度となく通ったことでしょう。 ※訪日外国人の方に向けたドコモバイクシェアの借り方については次のページもご参照ください。訪日外国人の方がドコモバイクシェアを利用する方法 なお、この頃北斎は挿絵の他に匿名で文章も書くことがありました。貸本屋で働いた経験が役立ったのかもしれませんね。 2、北斗の人(30歳~) 破門と天啓 34歳。師匠の勝川春章の没後、北斎の才能を妬んだ兄弟子たちからの嫌がらせなどもあり、北斎は勝川派を飛び出します。その後さまざまな流派の門をたたいて画法を修行しますが、春朗の名前を使うことも禁じられ、唐辛子やカレンダーを売り歩いてしのぐほど極貧の時代だったといいます。 このころの北斎について、柳嶋妙見山法性寺にはこんな話が伝えられています。曰く、北斎が北辰妙見菩薩(北斗七星を象徴した仏)に […]

#Hokusai