CYCLE CINEMA⑧
『PERFECT DAYS』
日常は美しく、それはあまりにも

ある年齢層にとってヴィム・ベンダース監督は特別な意味を持つ存在だろう。ミニシアターがカルチャーに大きな影響力を持っていた時代、彼の撮る作品はどれも「観るべき映画」だった。『パリ、テキサス』(1985年)『ベルリン・天使の詩』(1987年)が大ヒットを記録した後、ヴェンダースの作品群――『ゴールキーパーの不安』、『都会のアリス』、『さすらい』など――が、何度もリバイバル公開された。熱狂とは言わないが、静かにヴェンダースの映画は受け入れられた。現在活躍する映画監督や映像作家たちに与えた影響は計り知れない(映画を学ぶ学生たちは狭い日本の中でロードムービーばかり撮っていたのだ)。

近年はドキュメンタリー作家としての活躍が目立っていたが、ヴェンダースの劇映画が帰ってきた。『PERFECT DAYS』(2023年)の主演は役所広司、舞台は東京。第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所が男優賞を受賞。さらに第96回アカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされた。もう、ヴェンダース祭開催だ。観るしかないではないかと、映画館に駆けつけた往年のファンも多いだろう。

『PERFECT DAYS』の話はシンプルだ。東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(小津映画によく登場する名前だ)は、淡々とした毎日を生きていた。毎朝、同じ時間に目覚め、同じように支度をし、植物の世話をし、懸命に働く。

劇中、大きな事件が起こることはない。毎日同じことを繰り返す(ように我々には見える)平山の日常が、少しイレギュラーな動きをするのが休日だ。少し遅く起き、溜まった洗濯をし、馴染みのスナックで一杯飲む(ママの石川さゆりの存在感よ)。普段は車移動をするが休日には自転車を使う。劇中で使用する自転車はイギリスの「Rudge-Whitworth」のヴィンテージ。平山は横長のバスケットに洗濯物を乗せてのんびりと走る。

それにしても、なぜ平山はこんなに古い自転車に乗っているのだろう。仕事用の車を所有し、携帯電話(スマホではないが)を持つが、彼の部屋はおよそ現代の日本の標準からはかけ離れている。コンピューターを持たず、Spotifyではなくカセットテープで音楽を聴いている。まるで、遠い昔から時間が止まったような世界だ。そう、彼の世界に電動アシスト自転車は登場しない。1日を懸命に生き、木々を愛し、銭湯に通い、読書をし、好きな音楽を聴き、休日には体に馴染んだ自転車に乗る。それこそが完璧な日々――PERFECT DAYS――なのだろう。映画を観た後、近所の街を自転車でのんびりと走りたくなる。日常の美しさ、儚さをヴェンダースは私たちに教えてくれた。日常は美しく、それはあまりにも完璧なのだと。

🎬CYCLE CINEMA STORAGE🎬
#01 “自転車泥棒”
#02 “プロジェクトA”
#03 “明日に向かって撃て!”
#04 “少年と自転車”
#05 “居酒屋兆治”
#06 “ニュー・シネマ・パラダイス”
#07 “キッズ リターン”
#08 “PERFECT DAYS”
#09 “クレイマー、クレイマー”
#10 “E.T.”
#11 “ガチ星”
#12 “イエスタデイ”
#13 “少女は自転車にのって”
#14 “関心領域”
#15 “アンゼルム”
#16 “男はつらいよ”

Text_井上英樹/Hideki Inoue

兵庫県尼崎市出身。ライター、編集者。趣味は温浴とスキーと釣り。縁はないけど勝手に滋賀県研究を行っている。1カ所に留まる釣りではなく、積極的に足を使って移動する釣りのスタイル「ランガン」(RUN&GUN)が好み。このスタイルに自転車を用いようと、自転車を運搬する為に車を購入した(本末転倒)。

Illusutration_Michiharu Saotome

CULTURE
CYCLE CINEMA④
『少年と自転車』
父に捨てられた少年は自転車に乗り希望を探す

『少年と自転車』(2012年、ダルデンヌ兄弟監督)はその名の通り、少年と自転車が物語の中心となって話が進む。主人公はベルギーの児童養護施設で暮らしている少年シリル。ある日、父との携帯電話が不通になってしまう。アパートの管理人に連絡をしても「引越しした」と言う。信じられるわけがない。息子に黙って引っ越すなんて。しかも、大切な移動手段である自転車は父のアパートに置いたままだ。シリルは施設を逃げ出し、部屋を訪れるが、管理人が言う通り引っ越した後だった。自転車も見当たらない。シリルは父に捨てられたのだ。

#Column #Cinema
CULTURE
CYCLE CINEMA②
『プロジェクトA』 至極の自転車チェイスに浸る

90年代初頭の中国は、今の中国の風景とまるで違った。朝夕には「中国名物」と言われた自転車ラッシュアワーを見ることができた。当時は多くの人々が通勤に自転車を利用していた。数千の人々が同じ道を走る様子は圧巻だった。しかも、ほぼ同じ車種で色も同じだったため、ある種の調和があった。『鳳凰』と『永久』という上海のブランドが人気だったように思う。生活を支える交通手段だったので、タフで重厚感のある自転車だった。

#Project A
CULTURE
CYCLE CINEMA⑨
『クレイマー、クレイマー』
はじめて自転車に乗った瞬間、誰といたか

アメリカン・ニューシネマという映画のムーブメントがあった。『俺たちに明日はない』『卒業』『イージーライダー』『未知との遭遇』『地獄の黙示録』といった1960年後半~70年代にかけて発表された作品群だ。若手監督が多く起用された理由もあるのだろう、社会や政治に対してのメッセージやある種の批判的な視点を取り入れていて、従来のエンターテイメント映画とは異なるアプローチをしている。アメリカン・ニューシネマは若い世代に熱狂的に支持され、その後の映画に大きな影響を与えた。 『クレイマー、クレイマー』(1979年)もアメリカン・ニューシネマの作品。ストーリーはシンプルで離婚した夫婦と子どもの物語だ。オリジナルタイトルは『Kramer vs. Kramer』なので、裁判劇ということがわかるだろう。物語はヴィヴァルディの『マンドリン協奏曲 RV 425』の軽快な音楽で始まる。その軽快な音楽と対比するかのようにメリル・ストリープ演じるジョアンナの表情は暗い。今まさに、彼女は息子のビリーを置いて家を出ようと決心していたのだ(ほぼセリフもなく、表情だけで思いを伝えるメリル節が炸裂している)。そんなことも知らず、テッド(ダスティン・ホフマン)が仕事から帰ってくる。彼の頭の中は仕事のことでいっぱいだ。ジョアンナは明確な理由も告げぬままテッドと別れると言い、家を出て行く。すぐに戻るだろう。テッドは軽く思っていた。しかし、彼女は戻ってこない。ジョアンナに任せきりだった家事をなんとかこなしながら、子育てと仕事に奮闘していく。テッドは彼なりに子育てを懸命にする。しかし、ビリーは母が去った寂しさをテッドにぶつける。心 […]

#Manhattan