葛飾北斎のまなざしを追って
——富嶽三十六景をめぐる自転車旅 #3

北斎の描いた富嶽三十六景を自転車で辿る旅もいよいよ最終回。前回紹介した「神奈川沖浪裏」と並び“富嶽三十六景の三役”と称される「凱風快晴」「山下白雨」を望めるサイクリングスポットを今回は紹介いたします。加えて「甲州三坂水面」、そしてシリーズ唯一の“富士山の中から描かれた”「諸人登山」を大トリに連載を締めたいと思います。それぞれの風景に息づく現代の富嶽三十六景、最終回をどうぞご覧ください。

*TOPの作品は葛飾北斎作「凱風快晴」
*掲載されている葛飾北斎の作品画像は東京富士美術館より入手しています

Text&Photo_Hokokara

目次

1. 「山下白雨」 十里木高原展望台より
2. 「甲州三坂水面」 河口湖より
3. 「凱風快晴」 山中湖より
4. 「諸人登山」 富士山から
5. 旅の終わりに

1. 「山下白雨」 十里木高原展望台より

「山下白雨」葛飾北斎 作/東京富士美術館より

山下白雨」(さんかはくう)は前回の「神奈川沖浪裏」と後述の「凱風快晴」(がいふうかいせい)とともに富嶽三十六景の三役に数えられる北斎の代表作。山頂はすっきりとした印象ですが、中腹からモクモクと白い雲がわき、山麓では雲の形はしていませんが真っ黒な雨雲に覆われています。その証拠に画面右下の黄色い線、これは稲妻の意匠です。
「山下白雨」という名前からは連想しづらい黒富士を描いたこの作品。まったく同じ状況を再現するのは困難ですが、できる限り近い光景を探してみました。ちなみに白雨とはにわか雨のことです。

訪れたのは、国道469号のほぼ中間に位置する十里木高原駐車場。富士市と御殿場市を結ぶこの道は、標高差と緩急のあるアップダウンが続く峠道で、登るにつれて木立の間から富士山が姿を現し、まるで並走するようにその姿を望むことができます。

十里木高原駐車場は、越前岳登山の起点であると同時に、富士山を正面に捉えられる展望地点でもあります。越前岳は富士山まで約15kmという近さで、屈指の富士見の山。脚に余裕があれば、駐車場から少し登って展望台へ向かうと、富士の全貌を一望できます。

十里木高原展望台

十里木高原展望台からの眺めがこちら。駐車場から15分も登れば越前岳の山頂に立つまでもなくこの絶景を拝むことができます。
この雲ひとつない景色は午前9時ごろのもの。ところが10時を過ぎると空気が温まり、中腹以下は一気に雲に包まれてしまいます。

「山の天気は変わりやすい」という注意をはた目から実感することができます。麓では今まさに雨に降られているのかもしれません。山下白雨のように雷までは拝めませんが超近距離からの迫力満点の富士を楽しむことができました。十里木高原展望台はおすすめのビューポイントです。


2. 「甲州三坂水面」河口湖より

「甲州三坂水面」(こうしゅみさかすいめん)葛飾北斎 作/東京富士美術館より

甲州三坂とは山梨県の富士河口湖町と御坂町をまたぐ御坂峠のこと。しかし御坂峠からは富士山は望めても河口湖を見渡すことができないので、本図は河口湖畔から富士山を眺めたものとされています。

遊覧船での観光も楽しめる

ということで次に紹介させていただく三十六景スポットは河口湖。この湖はすぐそばに富士山麓電気鉄道富士急行線「河口湖駅」があることもありアクセスはとても良いです。
河口湖畔の道路には順路を示すブルーラインも整備されており、周遊サイクリングにぴったりの湖。湖畔にはレンタサイクルのお店もいくつかあり、手ぶらで訪れてもサイクリングが楽しめます。

富士山との距離は先述の十里木高原展望台に負けず劣らずの近さ。迫力のある富士山を傍に感じることができるでしょう。
私が訪れたタイミングではあいにくほとんどが雲に隠れ、絵と同じような、湖に山体が移った逆さ富士も拝めませんでしたが、そこは理想の富士を思い浮かべる想像力で補うことにします。きっと北斎もそうしたはずですから。
というのも「甲州三坂水面」の絵には大胆な嘘が描かれているからです。それは湖面に映った逆さ富士の位置と姿。逆さ富士は鏡像なので線対象に映るはずですが本図の逆さ富士は左にずれています。そして描かれている富士山は夏山なのに対して、逆さ富士のほうは雪をかぶった冬富士。現実ではありえない構図を巧みに作品に落とし込む北斎の想像力が推し量れる一枚です。


3. 「凱風快晴」 山中湖より

「凱風快晴」葛飾北斎 作/東京富士美術館より

お次は富嶽三十六景三役の最後の一枚「凱風快晴」。赤富士という通称で親しまれるように、赤茶けた地肌が印象的な夏の富士です。凱風とは初夏に吹く穏やかな南風のこと。これまでの記事でも何度かご覧いただいたように、夏の山には靄や雲がかかりやすいのですが、この赤富士がくっきりとその山容を示しているのは凱風がそれらを吹き飛ばしているからかもしれません。

湖畔をほぼ一周できるサイクリングロードが整備されている

またこの「凱風快晴」はタイトルからも分かるように題の中に場所が含まれていないため、どこから描かれたものであるかは諸説あるものの特定はされていません。なので「甲州三坂水面」と同じように富士見の名所である河口湖から撮っても良かったのですが……
バリエーションを求めて山中湖にやってまいりました。山中湖も、河口湖と同じく逆さ富士が望める富士見の名所。近くに駅はなくアクセス良好とは言い難いのですが、河口湖からの距離は15kmほどと、自転車であればそう遠くない位置にあります。湖畔にはサイクリングロードが整備されており、自転車での走りやすさは河口湖以上かもしれません。

朝日に赤く染められる富士山

そんな山中湖から見ることができる富士山がこちら。「凱風快晴」通り、いやそれ以上の赤さを見せてくれました。「赤富士」というのは朝日を受けて赤く染められる富士山のことをいう言葉。登山の世界では「モルゲンロート」と呼ばれる、よく知られた自然現象です。
しかし北斎の時代では誰しもが知る現象ではなかったと考えられ、「凱風快晴」の赤富士はあくまで赤茶けた富士山の地肌を強烈に印象付けただけという説もあります。

なんにせよ見事な富士山が拝める山中湖。モルゲンロートのタイミングでなくとも絶景です。富士山を傍らに感じながらの山中湖サイクリング、おすすめです。


4. 「諸人登山」富士山から

「諸人登山」葛飾北斎 作/東京富士美術館より

富嶽三十六景をめぐる旅の大トリはこちら「諸人登山」(しょにんとざん、しょにんとざん、など呼称数種)。富嶽三十六景全46図のうち唯一、富士山そのものの姿が描かれていない一枚です。もっとも「描かれていない」と言うのは正確ではなく、この作品は富士山に登る人々を山の内部から捉えた視点で描かれたもの。
となればこの絵のモデル地はもちろん富士山中となります。これまで遠目に見てきた富士山の懐に入り込むということで、締めにはもってこいのスポットといえるでしょう。

やってきたのは標高約2,400メートルの富士宮口五合目駐車場。ここまで舗装路が続くのは北斎の時代にはない文明の恩恵です。おかげで自転車でも到達可能ですが、道中に観光施設や飲食店はほとんどなく、延々と続く上り坂に挑む純粋なヒルクライムの道。レースの舞台になることはあっても、のんびりと走るサイクリングコースとは言いがたいのが実情です。
さらに、五合目の駐車場から見晴らしのよい場所に出るには片道30分ほどの歩行が必要です。軽いハイキングになりますが、山腹から仰ぐ富士の頂は圧巻の迫力です。

間近に迫る富士の頂

「諸人登山」に描かれる人々は、行衣を身にまとい、富士山信仰のもとに登拝する庶民の姿。18世紀前半、富士山への信仰は庶民の間に広がり、やがて富士講と呼ばれる講中(こうじゅう)組織を生みました。北斎の絵には、うなだれて杖をつく人、途中でへたり込む人など、苦行にも似た登山に挑む人々の姿が描かれています。当時の富士登山がいかに過酷であったかがうかがえます。

さらに片道1時間ほどで宝永山の頂に立てる

現代では、五合目まで舗装路が延び、登山道も整備されています。それでも山頂を目指す道のりは容易ではなく、標高差と天候の厳しさが挑戦者を試します。開山期間は7月上旬から9月上旬のおよそ2か月間に限られますが、せっかくここまで来たのなら、装備を整えて山頂を目指してみるのも一興でしょう。


5. 旅の終わりに

いかがでしたでしょうか。三回にわたってお届けしてきた「富嶽三十六景」をめぐる自転車の旅も、いよいよ終わりを迎えました。北斎が描いた富士を追い各地をめぐることで、時代を越えて変わらぬ山の姿と、その周囲の移ろいを実感することができました。
改めて感じるのは、富士山が今も変わらず日本の象徴であり、人々を惹きつけているということです。
私が紹介した場所を訪れても、同じ景色や感想を得られるとは限りません。けれども、みなさん自身の目で見た富士と北斎の描いた富士を重ねてみれば、きっとその時にしか得られない気づきがある旅になるはずです。
そんな旅を求めて、富嶽三十六景をめぐるサイクリングに出かけてみてはいかがでしょうか。


🚲葛飾北斎のまなざしを追って
1. 静岡編
2. 千葉編
3. 富士山編

Profile

Hokokara
宮崎県出身。山と神社をテーマに全国を巡る旅を続けるブロガー。過去には自転車で日本一周を達成し、現在は「ひのもと行脚」にて登山や歴史、風景にまつわる記事を発信している。今後は海外にも取材のフィールドを広げ、日本と世界の魅力を発信していく予定。
ブログ「ひのもと行脚」 https://fawtblog.com/

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