自転車で走ればアートが生まれる。
『TOUR DE TSUMARI/ツールド妻有』主催者、建築家・伊藤嘉朗さんインタビュー(後編)

毎年、新潟県で開催されている『TOUR DE TSUMARI/ツールド妻有』(以下、『ツールド妻有』) は最大で走行距離120kmを走るコース。タイムトライアルではないため、風景や地元の人たちのもてなしを楽しむことができる。特筆すべき点は、このイベントが移動すること自体をテーマとしたアート作品という点だ。発起人は建築家・サイクリストの伊藤嘉朗(いとうよしあき)さん。前回に引き続き、伊藤さんに話を聞いた。

*前編はこちら

展覧会とレースの融合

ライド途中での作品鑑賞はTOUR DE TSUMARIならではの光景

展覧会というと、美術館での展示を想像する人が多いかもしれない。3年に一度開催される「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」は世界最大級の国際芸術祭であり、なんと200の集落に作品を点在させている。美術館での展示を合理的とすると、この観せ方は真逆に位置し、とても非効率的な展示スタイルだ。人々はマップを片手にアート作品を探して回る。とても1日で観回れる規模ではない。作品鑑賞時間より作品のある場所に行く時間の方が長いはずだ。だからこそ、アート愛好家だけではなく幅広い層の知的好奇心を刺激するのだろう。里山を歩き、湧き水を飲み、名産の蕎麦を食べ、地域の人たちに道を尋ねる。自分で楽しさを見つける展覧会なのだ。

「作品」となったTOUR DE TSUMARI 2006。走行ルートと高低差を可視化した

当初、伊藤嘉朗さんは、ツール・ド・フランスのような何日もかけて行うレースを構想していた。2年後に予定されていた「越後妻有アートトリエンナーレ」でレースを「アート作品」として開催しようと考えたのだ。しかし、大規模なレースを開催するとなると交通規制や行政などとの様々な調整が必要になる。伊藤さんは2年の時間をかけてコースやイベントの構成を考えた。走行距離を短めに設定し、1日で完結するコース設定し、会場に点在する作品を見て回るツアースタイルのイベント形式とした。警察に相談すると、ようやく交通規制の必要なしとの許可が下りた。

事故後の、「これからも続けて欲しい」

河岸段丘が広がるこのエリアは、平坦な道も。初秋の風に吹かれながら走る

第1回(2006年)『ツールド妻有』開催はとても牧歌的なものだったようだ。「一緒に走り、僕が作品を解説して回るイベントでした」と、伊藤さんは当時を振り返る。開催後、運営スタッフから「次は参加者500人を目指そう」という声が出た。しかし、イベント経験のない運営サイドは100人の参加でもてんてこ舞いだった。事故も起きてしまった。子どもを避けようとした参加者が横転、自転車は大破し、サイクリストは怪我をしてしまったのだ。子どもに怪我がなかったのは不幸中の幸いだった。怪我をした人は伊藤さんに言った。

「私たちは好きで参加している。こんなにいいイベントなのだから、これからも続けてほしい」

怒られるどころか『ツールド妻有』の開催を感謝された。怪我をした人は翌年も元気に参加してくれたそうだ。

たくさんの人が走る自転車イベントの運営は思ったより大変だった。しかし、地元の人たちからなる運営サイドは楽観的な意見が徐々に増えてきた。100人できたのなら300人は可能かもしれない。そして、300人規模の大会ができるのなら500人もできるかもしれない。楽観的なスタッフの後押しで、年を重ねる度にイベントの規模は大きくなっていく。現在では1000人が参加する大きなイベントになってきた。

手作りのエイドステーション

自分の畑や庭で採れた農作物が振る舞われる。なんて贅沢な水分補給!

現在のコースは十日町市の温泉施設であるミオンなかさとをスタート&ゴール地点として120km、90km、70kmの3つのコースに分かれている。自転車初心者も上級者にも走り応え、作品や風景の見応えのあるコース設定になっている。

参加者たちは休憩や補給をするエイドステーションやチェックポイントを通過し、時間を競わずに公道を走る。このエイドステーションは地元のボランティアが運営してくれている。スイカ、スモモ、トマト、アイス、笹団子、カレー、冷汁など豊かな食材が並ぶ。なかにはパエリアや蕎麦まで振舞ってくれるエイドステーションがある。レース開催中に水分やカロリーを摂取できるだけで助かるのに、心づくしの接待はレース参加者の思い出となって、記憶に刻み込まれる。

米どころで地元のボランティアスタッフが握ってくれるおにぎりは格別
その家の味ぎゅっと詰まったきゅうりの糠漬け
大鍋でのパエリアも大好評

「いろんな集落が手を挙げてくれるんです。水分やカロリーの補給をする場所ですから本当は等間隔に置きたいのですが、やりたいって言ってくれるのだったらやってもらいましょうと。だから、かなり近接しているエイドステーションありますよ」と伊藤さんは笑う。すべてのエイドステーションに寄ると「スタート時点より体重が増える」とも言われている。愛とカロリーに溢れるエイドステーションだ。

アットホームな雰囲気で見ず知らずのライダーにも声援が送られる

ツールド妻有の規模は大きなものになっても、大切なのは開催した当時の雰囲気だと伊藤さんは言う。

「当時はツールド妻有のことを越後妻有アートトリエンナーレの作品だという思いを持っている人が何割かいました。今は参加者も増えエイドステーションにもほとんど寄らず、作品も見ない人もいる。もちろん、そういう参加者がいてもいい。ですが、初めの頃は地域のみんなが運営してくれていることを理解してくれている人が大半だったんですよね」。なかには地元のボランティアの働きに感動し、翌年からボランティアサイドに回る参加者もいたそうだ。

自分たちで作る自転車イベント

ボランティア専用Tシャツを着てエイドステーションに立つ。笑顔が絶えない

参加者が増えるといろいろな人が現れる。“レース”ではないので、交通規制はなく参加者は臨機応変に対応しなければならない。当然のことながら地元の人たちの生活や歩行者は最優先だが、ごく希に狭い道を飛ばす人もいる。伊藤さんは参加者が増え盛り上がってきてはいるものの、牧歌的だった頃の雰囲気を取り戻したいと考える。「イベントが大きくなっている今だからこそ、その部分を伝えていかなければと思っています」。それにはツールド妻有を「自分事」として考えてもらいたいと伊藤さんは考える。

「ツールド妻有は自分たちで作るイベントと感じて欲しい。そうすれば、これからも良い自転車イベントになり続けると思いますね」

完走するかタイムアウトしてでも食べるか迷うライダーが出るほど人気の蕎麦ステーション

受動的に参加するだけではなく、タイムにとらわれることなくイベント自体を楽しむ。風景の中に身を置き、アート作品を鑑賞し、エイドステーションで地元の人たちと交流する。そうすることで、参加者はレースの一部になる。走る楽しみを見つけることが、『ツールド妻有』の醍醐味なのだろう。この夏も、『ツールド妻有』が開催される。一体、どんなドラマが生まれるのだろう。それは、楽しみを見つけられる人に委ねられている。

Text_Hideki Inoue

伊藤 嘉朗/Yoshiaki Ito

1965年北海道生まれ。東京芸術大学大学院修了後、建築設計事務所などを経て、2000年伊藤嘉朗建築設計事務所を設立(現一級建築士事務所 イトーサイクル)。建築設計を軸に『小さな家』(大地の芸術祭2000)『ツールド妻有』(大地の芸術祭2006〜毎年開催)『千住屋台計画』『みちのいろ作戦』(aoba+art 2016)『100段階段プロジェクト』など、建築に軸足を置きつつ地域アートイベントやコミュニティ活動に積極的に参加している。

ツールド妻有 2023年9月3日(日)開催!
お申し込みはこちら
※締切は2023年7月7日です
http://tdtsumari.info/

CULTURE
CYCLE CINEMA⑮
『アンゼルム』
巨大「工場」を自転車で行くアーティスト

画家、アーティストのスタジオと聞き、想像するイメージがあると思う。混沌としたデスクには絵筆や絵の具が乱雑に並ぶ。日差しが降り注ぐ大きな窓。その先には美しい庭があるかもしれない。ドイツの現代美術の巨匠アンゼルム・キーファーを描いた映画『アンゼルム』(2023年)はドキュメンタリー作品のスタイルを取る。しかし、監督はヴィム・ベンダース。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』『PERFECT DAYS』などで知られる名匠だ。彼の手にかかると、単なる記録映像ではなく、事実とフィクションが絶妙に混じり合う詩的な映像体験へと昇華される。 キーファーはドイツを代表する芸術家だ。彼の扱うテーマもドイツの歴史、ナチス、戦争、ワーグナー、ギリシャ神話、聖書などをテーマに、砂や薬、鉛などを用いた作品が特徴的だ。フライブルク大学で法律を学ぶが、美術に転じ、1969年にカールスルー工芸術アカデミーに入学。1970年にはデュッセルドルフ芸術アカデミーで絵画を学び、ヨーゼフ・ボイスらに師事した。現在では、現代美術における最重要作家の一人として数えられている。 映画冒頭、キーファーのスタジオが登場する。フランス南部の町・バルジャックにあるスタジオで元は繊維工場だったそうだ。このスケールが大きい。制作で使う素材や道具は専用棚に収納されており、作品を運ぶフォークリフトが走り回る。もはや「工場」と呼ぶにふさわしい広大な空間だ。彼の作品は巨大であり、その制作環境もまた圧倒的なスケールを持つ。そんな広大なスタジオの中を彼は自転車で巡る。作品から作品へ。まるで自らの創造の森を探検するかのように、軽やかに移動する姿が印象 […]

#Wim Wenders
CULTURE
CYCLE CINEMA⑭
『関心領域』
地獄と天国を自転車が繋ぐ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(以下、アウシュヴィッツ)を題材にした『関心領域』(2024年)は、美しく明るい場面が続く。ご存じのように、ナチス体制のもとで管理・運営されていたアウシュヴィッツは「人類最大の過ちのひとつ」「人類史上最悪の犯罪現場」として悪名高い施設だ。ドイツが占領下に置いた現在のポーランド南部、オシフィエンチム市郊外に建設された。司令官ルドルフ・ヘスの指揮のもと、1940年から1945年にかけて多くのユダヤ人が殺害された。あまりにも多くの人が犠牲となったため、現在でも正確な総数は不明とされ、100万から250万人という説がある。 映画の舞台はルドルフ・ヘスの邸宅。そこには家族が暮らしている。戦時下であっても家の中には家庭の日常があり、子育てや夫婦の会話が交わされる。その日常は淡々と続く。しかし、観客は次第に不思議な違和感を覚える。この家は何かがおかしい。空気のように扱われる使用人たちだろうか。誰かから奪った衣服を嬉しそうに着る夫人だろうか。吠えまくる犬だろうか。おかしな行動をする子どもたちだろうか。違う。「音」だ。音によって、家の「外」で何かが起きていることに気づく。 そう、ヘスの家の隣にはアウシュヴィッツがあるのだ。何かを燃やすボイラーの音、乾いた銃声、命令口調のドイツ語、叫び声、人々が運び込まれる機関車の音。その「音」に囲まれて、ヘスの家族は暮らしている。まともな感覚を持っていれば、音の元を想像する。そんな場所で暮らすことに耐えられないだろう(事実、逃げ出す人もいた)。塀を一枚隔てた場所は地獄なのだから。しかし、すぐ側では普通の暮らしがあり、庭の花を […]

#Colunm #Cinema
CULTURE
CYCLE CINEMA⑬
『少女は自転車にのって』
女性が自転車に乗れない世界の物語

映画のおもしろいところは、多様な世界を見せてくれることだろう。マフィアの血の歴史を。遠い星で起こった戦争を。殺し屋と少女の出会いを。幕末の侍の生涯を。絶体絶命の兵士を。湖畔で襲いかかる殺戮者との戦いを。国境や時代、時空を越えて、私たちに驚きと感動を与えてくれる。 『少女は自転車にのって』(2012年)はアカデミー賞外国語映画賞やヴェネツィア国際映画祭国際映画祭にノミネートされたサウジアラビア映画(ドイツ共同制作)。監督と脚本を担当したハイファ・アル=マンスールはサウジアラビア初の女性映画監督だ。 物語はサウジアラビアの首都リヤドで始まる。主人公は10歳の少女ワジダだ。頭の回転が速く、小銭を貯める能力に長けている。その彼女の夢は自転車に乗ること。お金を貯めて自転車を買い、男友だちと自転車競走がしたいのだ。これを聞いた人は「はいはい、途上国の貧困映画ね」と思われるかもしれない。違うのだ。彼女の家はおそらく中流家庭より上。素敵なリビングには大型テレビやゲーム機がある。母の仕事の送り迎えにはドライバーがいる(乗り合いだけど)。基本的に生活には困りごとはない。両親は真面目に働き、彼女に愛情を注いでくれる。お金に困っていないのに、なぜ自転車を買えないのか。それは、女の子が自転車に乗ってはいけないから。 私たちの常識から考えると驚きの女性差別が劇中に登場する。学校でも大きな声で話してはいけない(男性に聞かれてはいけない)。顔や体のラインがわからないようヒジャブなどで覆わなくてはならない。婚姻前の年頃の男女が外で会ってはならない。ラジオでロックを聴いてはいけない(これは女性だからというわけでは […]

#Cinema #Colunm