CYCLE CINEMA⑲
『イル・ポスティーノ』
詩を運ぶ自転車

1950年代の南イタリア。島で生まれた者にとって、「外」は遠い。マリオの友人たちは次々とアメリカに渡り、島には絵はがきだけが届く。海の向こう「アメリカ」に渡った彼らは、新天地で別の人生を始めている。一方マリオは、漁師の父の手伝いを「風邪気味で」とサボり、行き場のない焦燥感を抱えたまま日々をやり過ごしている。父は言う。「アメリカでも日本でもどこでもいい。とにかく仕事をしろ」。まっとうな意見だ。けれど、まっとうさだけでは届かない場所が、青年のなかにはある。彼はなにかを探している。それがなにかは、まだ彼自身にもわかっていない。

ある日、マリオは自転車に乗って町に出る。入り組んだ海岸線の道を漕ぎ、映画館に入り、ニュース映画のなかにパブロ・ネルーダという詩人を見る。政治的な事情で祖国チリを追われ、この島に身を寄せているという。帰り道、郵便局の前でマリオは一枚の募集要項を見つける。「郵便配達人 募集 要自転車」。応募の条件はたった一つ、自転車を持っていること。これならできる。古い一台の自転車が、彼を世界に接続するための鍵になる。

配達人に採用されたマリオは、毎日パブロの家まで自転車を漕ぐ。最初はぎこちない関係だったが、少しずつ距離が縮まっていく。マリオは取り寄せたパブロの詩集を開き、生まれて初めて「隠喩(メタフォレ)」という言葉に出合う。わからないながらに、言葉の持つ力に惹かれていくマリオ。詩を書きたい、と打ち明けたマリオに、パブロはこう答える。「ゆっくり岸を歩きなさい。周囲を見ながら」。詩は、移動と観察のなかにある。歩くこと、自転車を漕ぐこと、すべてに詩は潜んでいるのだ。

言葉が彼を変えたのだろうか。居酒屋のベアトリーチェに恋をしたマリオは、隠喩で彼女を口説く。「君の微笑みは羽を広げた蝶だ」。それまで島の風景でしかなかった蝶やバラや海岸線が、急に彼の内面と接続される。詩は、内と外を結ぶ。そして自転車もまた、内と外を結ぶ乗り物だ。漕ぐ身体は内側にあり、視界はどこまでも外に開かれている。

やがて政治情勢が変わり、パブロは島を去る。届く手紙は事務的なものばかりで、期待していた交流は戻らない。ベアトリーチェの家族は詩人の冷淡さに不満を言うが、マリオは静かに言う。「僕は彼に何をしただろう。なにもしていない。むしろ、世話になったのは僕の方だ」。そして録音機を借り、自転車で島を巡る。波の音、教会の鐘、漁師の声。それをパブロに送りたいと考えたのだ。絵はがきの向こうに憧れていた青年が、いまや自分の周囲に、世界を見出している。外側にしかないと思っていたものは、実は、自転車で漕ぎ出せる距離の内側にあった。それを彼に教えたのが詩であり、その詩へ通う道を共に進んだのが一台の自転車だった。5年後、パブロが島に戻ってくる。そこで彼が知ることになる事実は、ぜひ映画のなかで受け取ってほしい。


Text_井上英樹/Hideki Inoue


🎬CYCLE CINEMA STORAGE🎬
#01 “自転車泥棒”
#02 “プロジェクトA”
#03 “明日に向かって撃て!”
#04 “少年と自転車”
#05 “居酒屋兆治”
#06 “ニュー・シネマ・パラダイス”
#07 “キッズ リターン”
#08 “PERFECT DAYS”
#09 “クレイマー、クレイマー”
#10 “E.T.”
#11 “ガチ星”
#12 “イエスタデイ”
#13 “少女は自転車にのって”
#14 “関心領域”
#15 “アンゼルム”
#16 “男はつらいよ”
#17 “国宝”
#18 “レッド・ロケット”
#19 “イル・ポスティーノ”

Profile

Text_井上英樹/Hideki Inoue
兵庫県尼崎市出身。ライター、編集者。趣味は温浴とスキーと釣り。縁はないけど勝手に滋賀県研究を行っている。1カ所に留まる釣りではなく、積極的に足を使って移動する釣りのスタイル「ランガン」(RUN&GUN)が好み。このスタイルに自転車を用いようと、自転車を運搬する為に車を購入した(本末転倒)。

Illusutration_Michiharu Saotome

CULTURE
CYCLE CINEMA⑤
『居酒屋兆治』
函館の坂道を自転車で行く健さんの格好良さよ

北海道を鉄道で旅していたとき、奇妙なアナウンスがあった。ドラマ撮影のため、次の駅の名前が変わっているから気をつけろという。車内がざわめいた。北海道・富良野を舞台にした人気ドラマだったからだ。列車は駅に着いたが、撮影隊らしきものを通り越してしまった。すると、ホームの隅に背の高い男性がいるのが見えた。帽子を深くかぶってはいたが高倉健だとすぐにわかった。恐らく、旧知の友(田中邦衛)の撮影現場に陣中見舞いに訪れたのだろう。僕らの視線に気がついた健さんは、はにかみながら片手を上げて挨拶してくれた。圧倒的な格好良さだった。以来、「世代」ではないけれど、高倉健の主演する作品を観るようになった。

#Column #Cinema
CULTURE
CYCLE CINEMA③
『明日に向かって撃て!』 悲劇前、自転車に乗る軽やかな時間

時折、素晴らしい映画の邦訳に出合う。例えば『An Officer and A Gentleman』(将校と紳士)は『愛と青春の旅立ち』。若さと愛が溢れている。観たいじゃないですか。『THE BODY』(死体)は『スタンド・バイ・ミー』。「死体の時のリバー・フェニックスは大スターの片鱗があったよね」なんて言わなくてよかった。挿入歌であるベン・E・キングの名曲から取った良いタイトル。

#Column #Cinema
CULTURE
CYCLE CINEMA⑮
『アンゼルム』
巨大「工場」を自転車で行くアーティスト

画家、アーティストのスタジオと聞き、想像するイメージがあると思う。混沌としたデスクには絵筆や絵の具が乱雑に並ぶ。日差しが降り注ぐ大きな窓。その先には美しい庭があるかもしれない。ドイツの現代美術の巨匠アンゼルム・キーファーを描いた映画『アンゼルム』(2023年)はドキュメンタリー作品のスタイルを取る。しかし、監督はヴィム・ベンダース。『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』『PERFECT DAYS』などで知られる名匠だ。彼の手にかかると、単なる記録映像ではなく、事実とフィクションが絶妙に混じり合う詩的な映像体験へと昇華される。 キーファーはドイツを代表する芸術家だ。彼の扱うテーマもドイツの歴史、ナチス、戦争、ワーグナー、ギリシャ神話、聖書などをテーマに、砂や薬、鉛などを用いた作品が特徴的だ。フライブルク大学で法律を学ぶが、美術に転じ、1969年にカールスルー工芸術アカデミーに入学。1970年にはデュッセルドルフ芸術アカデミーで絵画を学び、ヨーゼフ・ボイスらに師事した。現在では、現代美術における最重要作家の一人として数えられている。 映画冒頭、キーファーのスタジオが登場する。フランス南部の町・バルジャックにあるスタジオで元は繊維工場だったそうだ。このスケールが大きい。制作で使う素材や道具は専用棚に収納されており、作品を運ぶフォークリフトが走り回る。もはや「工場」と呼ぶにふさわしい広大な空間だ。彼の作品は巨大であり、その制作環境もまた圧倒的なスケールを持つ。そんな広大なスタジオの中を彼は自転車で巡る。作品から作品へ。まるで自らの創造の森を探検するかのように、軽やかに移動する姿が印象 […]

#Wim Wenders